寝不足だとろくなことは考えないし死にたいといっても本当に死にたいわけではないというお話

自分はなにかあるとすぐ「あ~死にたい」と思うし、口にもする方だ。

(流石に人前では言わないけれど)

でも、実際に死にたいと思っているわけではない。

「穴があったら入りたい」とか「消えてしまいたい」に近い意味で使っている。

要するに、理想通りにいかない自分に耐えられない

そんな気分になった時に「死にたい」と口にしているのだと思う。

だから、人生が思い通りに運んでいれば長生きを望みさえするだろう。

では、今はどうなんだと言われると迷うところではある。

叶えたい夢があるわけでもなく、見守りたい子孫がいるわけでもなく、

ただ生きている今から離れたところで問題ない気もする。

こんな考えになるのは寝不足のせいだ。

最近、これも寝不足のせいで肋間神経痛がよく起きるのだけど、

これは大病の前兆ではなくただの神経痛だということに、

安心する自分と落胆する自分の両方が存在する。

これでもう何にも煩わされず楽になれるという期待と、

でも本当に死ぬのだとしたら悔いはないのかという迷い。

その間で揺れ動く自分を感じる。

 

先日読んだ『歎異抄』の第九条を思い出した。

浄土が素晴らしいところで、浄土を信じ念仏すれば往生できるというのに、

それを喜ぶ気持ちも、一刻も早く浄土へ行きたいと思う心が起きないのは何故か。

唯円の困惑と親鸞の答えが第九条には書かれている。

親鸞は自分も唯円と同じ気持ちであることを伝えたうえで、

それは全て煩悩のせいであり、そんな自分を救うために阿弥陀仏は本願をたてた。

そう思うとますます心強く思われるというのだという。

続けて親鸞は言う。

浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、

死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、

いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、

まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。

なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、

ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。

早く浄土へ行きたいという気持ちがなくて、少しでも病気にでもなれば

死ぬんだろうかと心細く思うのも煩悩のせい。

久遠劫もの長い間流転し続けてきた故郷のようなこの世は苦悩があっても捨てがたく、

まだ生まれたことのない安らかな浄土は恋しく思えない。

よくよく煩悩が盛んであることだ。

名残惜しいと思っていても、この世の縁が尽きてどうにもならなくて死ぬときに

浄土へ行くはずなのだ。

 

これは阿弥陀如来の本願を信じ念仏しているはずなのに、

どうにも迷いがあると悩む人に向けられた言葉ではあるけれど、

中途半端な死にたがりの自分にも刺さる言葉だ。

この世に未練はないいつ死んでもいいと悟ったようなことを言うけど

お前は本当に悟ったわけではないだろう。

迷いがその胸にあるだろう。

そう言われている気がする。

「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはる」

ああ、まだ死にたくない そう思いながらもどうにもできず死ぬ

これが自分の最期なんだろうなと思う。

 

萩原朔太郎は「自殺の恐ろしさ」という散文詩に、

自殺するのが恐ろしいのでも、死の瞬間の苦痛が恐ろしいのでもなく、

例えば高層ビルから飛び降りた瞬間に生の意義を知って後悔することが恐ろしい

というようなことを書いている。

世界にはまだ希望があり自分は生きるべきなのだと気づいても、

もう飛び降りてしまったのだから取り返しがつかない。

悔みながらも死ぬしかない。そんな恐怖。

 

ああ、自分にもこの恐怖があるなと思う。

だから自殺はできない。

すっと眠るように死んでしまいたくても

そんな死はそうそうない。

病気とか老いとかいろんなことに恐怖を感じつつ

(しかも自殺にまで恐怖を感じつつ)

それでももがいて生きるしかないんだなと。

親鸞唯円にはここで阿弥陀如来の本願という救いがあった。)

 

だから、今死にたいという言葉が頭の中をぐるぐる回っているけれど

これは寝不足のせいで、ちょっと疲れていてそうなっているだけなんだと

改めて思ったところで寝ることにします。

おやすみなさい。