読書記録『歎異抄』

歎異抄の詳しい内容や解釈などをお求めの方は

ご期待には添えませんのでお帰り下さい。

 

神も仏も信じていなかった祖父ではあるが、

今は阿弥陀如来の導きによって浄土へ往生したということになっている。

本人は人間死んだらそれまでだと言っていたが、遺された身としては

祖父は浄土にいて死ねばまた会えると思っていた方が心が休まるものである。

そういう点では、自分は仏教に助けられていると言っていいだろう。

祖父が亡くなるまで自分の家が浄土真宗とも知らずに育ったわけだが、

改めてそうなんだと言われるとどんな宗派なのか気になりはじめ、

おぼろげな記憶で浄土真宗といえば『歎異抄』と思いつき、

薄さにつられて読むことにした。

 

歎異抄』は親鸞の死後に弟子が記したもので、様々な異説を嘆き、

本来の教え*1を改めて説いている。

今では「他力本願」というと、自分で努力せずに何でも人任せにするという

悪い意味で使われがちだが、本来は広く衆生を救おうという阿弥陀如来の本願を言う。

その本願を信じて念仏することが大事と説く中で印象的だったのが以下。

念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、

また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。

たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、

さらに後悔すべからずさふらふ。

                (『歎異抄岩波文庫42頁1~4行)

念仏をすれば本当に往生できるのかどうか疑う人に対し、知らないと言ったうえで、

自分はたとえ法然に騙されていて、念仏して地獄に落ちても後悔しない

と言い切るのが凄い。

どのような修行をしても仏にはなれないのであれば、

いずれにしても地獄が住処なのだろう(「とても地獄は一定すみかぞかし」)。

だから自分は阿弥陀如来の本願を信じて念仏する。

信じるか信じないかはあなたの自由ですよという。

というようなことも続けて述べているが、これは覚悟の現れであろう。

(なんとなく、この人が流罪の憂き目に遭うのわかる気がする。

こういう覚悟を持った人が自分と対立する側にいたら怖いでしょう。)

第一章に阿弥陀如来の本願は「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」

とあるが、親鸞もまた自分を「罪悪深重、煩悩熾盛」の人間と思っていたのだろう。

どんなに修行しても仏になることはできない。そんな人間が唯一救われる道が、

阿弥陀如来を信じ念仏する道だと。

 

次はどうでもいいことですが、気になったことをメモしておく。

親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、

いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の

父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて

たすけさふらふべきなり。 

                           (同 48頁)

七回忌を前にお寺の方から、法要は亡くなった方のためではなく、

生きている皆様の為にすることだと言われたけれど、それと繋がる。

最初に言われた通り、亡くなった時点で祖父は阿弥陀如来の力で

往生しているのだから救ってもらうための読経はいわないことになる。

では、生きている人間はなんのためにお経をあげるかというと、

家族の死を機会に仏縁を結び自らが救われるためであると。

自らが仏になることでまた他人をも救うことができるのだから、

そのことを一念に思うべきであるということだろう。

でも追善したいと思うのが一般的だから、とりあえずお寺としても

初七日とかお盆とかやっているということなんでしょうかね。

他にも気になることはいろいろあるけど、最後にこれをあげておく。

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の

さふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人も

もたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏を

まうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の

御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子と

まうすこと、きはめたる荒涼のことなり。

                            (同50頁)

要するに、専修念仏を志す人が、自分の弟子だ人の弟子だと拘るなということ。

自分の力でその人が念仏をするようになったのなら話は別だけれども、

それも全て阿弥陀如来の力なんだからぎゃあぎゃあ言うなと。

自分には弟子はいないと言い切られると、弟子の側は複雑な心境になりそうだけど、

とりあえず、現代に「浄土真宗」という宗派が浄土宗と別にできていることを

親鸞はどう感じているのか気になるところであります。

色々くだらないことを考える暇があったら往生を信じて念仏しなさいと

ただ怒られる気もしますが。

 

ちなみに今回は積読本の中からとったので岩波文庫で読んだけれど、

角川ソフィア文庫の方が現代語訳がついていて読みやすいと思う。

親鸞の書に『教行信証』とかがあるそうですが、そこまで手を伸ばす余力が

今のところなさそうなのでまた気が向いたら読むかどうか考えよう。

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

 

 

 

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 

*1:あくまで『歎異抄』作者の考える真説であって、親鸞の教えそのものかは別問題。