四十になる前に穏やかに死にたいという願い

住み果てぬ世に みにくき姿を持ちえて、何かはせん

命長ければ恥多し 長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ

めやすかるべけれ (『徒然草』第七段) 

 

鎌倉時代と今では成人とみなされる年齢や平均寿命や世相も大きく異なっていて、

四十手前で死ぬくらいがいいというのをどう評価するかも変わってくるだろう。

兼好法師がこれを書いたのが何歳の時だったのかはわからないが、

今でも若い時はこういうことを考えるものではないかと思う。

夭折とは早世とかいう言葉にどこか憧れて、

若くして亡くなった著名人に惹かれたり。

それはお前の話だろう?

仰る通り。

でも、残念ながらというか幸いにしてというか、

無事に二十歳を迎え、今や夭折とか早世とか言えない年齢になろうとしている。

保険とか年金とかの心配もしたりする。

多分、それなりに長く生きるんだろうなと思っている。

一方で、四十を前に穏やかな死を迎えれれないものかとも考えてしまう。

祖父母や親にはできる限り長生きしてほしいと思っているのに、

自分は早く死にたいと願うのは矛盾しているようだけど、

我が身可愛さでそう思っているという点では矛盾しない。

大切なものにはいつまでも変わらずにいてほしいと思えば思う程、

それらが失われたとしたら、その世界で生きていく自信がない。

家族とか守るものがあると違うのかもしれない。

徒然草』に戻ると兼好法師はこう続けている

 

そのほど過ぎぬれば かたちを恥づる心もなく

人に出で交らはんことを思ひ 夕の陽に子・孫を愛して

さかゆく末を見んまでの命をあらまし

ひたすら世をむさぼる心のみ深く

もののあはれも知らずなりゆくなん あさましき

 

兼好法師仏教的思想を背景に「あさましき」と、ばっさり切っているけれど、

子や孫を愛して、大きくなる様子を見るまで長生きしたいと思うのは

悪いことじゃないし、むしろ幸せだと思う。

ただ、子供もいないし何も残すものもない自分は、「あさましき」は否定しつつも

「長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」には頷いてしまう。