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将来何になるの?の破壊力

幼い頃から教師になることを期待されて育った。

特に祖母は、自分が教師になると信じて疑っておらず

教師という職業に反発を持っているなど微塵も思っていなかった。

だから、教員採用試験を受けなかった時の落胆は半端ではなく

教師にならずに将来何になるのかと問うてきた。

長兄は期待通りに教職についており、その後に続くとばかり思っていたのだ。

自分に教師は向いていないと説明し、他の職についても

祖母の落胆は続いていたようで、折に触れ教職の道への復帰を促してきた。

自分が体調を崩した時も、最初は生きているだけで十分だと口にしていたが、

復調してくるとともに「将来」への不安を訴えるようになってきた。

あなたは将来何になるの?という問いかけは祖母の中では今も健在だ。

今や自分は、かつて「将来」と言われた時を生きている。

今が自分の将来で、限られた環境の中で必死に生きているつもりだ。

しかし、祖母からしてみれば「本来の道」を外れ生き続けている自分は、

いつまでも定職に就かず遊び暮らしている人間と異ならない姿に映っている。

祖母に可愛がってもらっていた自分の中には、期待を裏切ったことへの

罪悪感が少なからずあって、それが時々顔を出しては自分を苦しめる。

「教師=輝かしい未来」という呪縛が祖母にも自分にもあるのだ。

(だからといって、期待に応えるためだけに目指すほど愚かではない。)

ただ何となく申し訳ないことをしたという心情になって、情に流されそうになる。

期待された以上の成果を出すことなど容易ではない。

もうノーベル賞でも貰わない限り「将来何になるの?」という問いに

胸を張って答えられるものはないような気がしている。