【読書記録】夏目漱石『三四郎』

『三四郎』を読み返したのは何回目だろうか。読むたびに三四郎をもどかしく思い、同時に愛おしく感じる。

自分も地方から上京したくちだからだろうか。上京したてで、ぼんやりしている三四郎の気持ちがわかる気がする。

三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立って驚くと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きと共に四割方減却した。不愉快でたまらない。

自信を四割方減却してしまった三四郎。理科大学に野々宮さんのもとを訪れ、研究の様を見てまた驚く。野々宮さんのもとを辞して池の端にしゃがんでいたところ、美禰子に出会う。出会うというよりは、見かけるというのが正しいだろう。三四郎はただ見惚れ、茫然していた。この場面が印象的。美禰子が歩きながら嗅いでいた白い花を三四郎の前に落とした後もいい。

 

三四郎は女の落して行った花を拾った。そうして嗅いでみた。けれども別段の香もなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いている。

 

花を拾って、その香りを確かめようとするあたりがなんともいえない。

美禰子が通り過ぎた後、三四郎は「矛盾だ」とつぶやくが、何が矛盾なのかわからないでいる。目前の出来事に驚いてばかりで、理解に到達していない三四郎と、香りのしない花は似合っている。

ところで、香りが三四郎を動かす場面が後に登場する。

 

女は紙を懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白い手帛を持っていた。鼻の所へ宛てて三四郎を見ている。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前に来た。鋭い香がぷんとする。

 

この香りの正体は「ヘリオトロープ」。三四郎がシャツを買いに入った唐物屋で、偶然美禰子と出会う。そこで香水の相談を受けた三四郎が、何も考えずすすめたものが「ヘリオトロープ」だ。美禰子はそれに決める。

池で出会った時に落とした花は何の香りもせず、三四郎はなんのことだかわからなかった。しかし、今度美禰子が差し出した手帛のヘリオトロープは違う。意図せずとはいえ自分がすすめた香水の香り。美禰子との時間が香りとともに思い起こされる。

と、クライマックスへとつながるのですが、そこは本文で楽しんで下さい。

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

 余談。安野光雅さんには申し訳ないけれど、新潮文庫漱石作品のカバーイラストの中で、『三四郎』のこの絵だけはいただけない。

【駄文注意】リップ・ヴァン・ウィンクルからの連想

お前の各文章はいつも駄文だろうという声が聞こえてきそうですが、

クリックする手間を省いてもらおうと一応注意喚起はしておきました。

 

図書館で本を借りた。一冊は『夏への扉』もう一冊は『漱石先生ぞな、もし』

まったく無関係の二冊だけれど、偶然にもある人物名が出てきた。

リップ・ヴァン・ウィンクル

こういう偶然に自分は意味を見出そうとする傾向がある。

リップ・ヴァン・ウィンクルが何かの符牒なのではないかと。

馬鹿げた考えだけれど、そう思ってしまうのだから仕方がない。

 

最近この単語に触れたのは、岩井俊二の映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』

黒木華は可愛かったし、Coccoは懐かしく存在感があった。

美しい音楽と映像。でも好きになれない映画。

現実と虚構の境がなく不安定になる。

 

もともとリップ・ヴァン・ウィンクルとは、

ワシントン・アーヴィングの小説に出てくる人物。

狩りに出たら不思議な男たちと出会い、ともに酒を飲んだ後眠ってしまい

気が付いたら20年の歳月が過ぎ去っていたという。

おとぎ話のような話。

 

夏への扉』は冷凍睡眠をして30年後の世界に目覚めるから、

意図してかせずにかの違いはあるが、例えとして出てくるのはわかる。

ここまでなら気にも留めなかったのだけれど、

まさか同時に借りた本の中にも出てくるとは思わなかった。

不思議なのは、この単語が得体のしれない不安感を引き起こすことだ。

他の人はきっとそんなことはないだろう。

 

20年という歳月を考えてみよう。

子供が大人になるその年月は、かつての自分には気の遠くなるような未来だった。

けれど、今では過ぎ去った20年は重くのしかかってくる。

思い起こせば夢のようで現実味がなくて気付けば過ぎ去ってしまっていた年月。

年ばかり取ったけれど成長のない自分にとっては恐ろしい時間の流れ。

気が付けば20年経っていて一人取り残されたリップ・ヴァン・ウィンクル

自分に大きな違いはないような気がしてくる。

時代に取り残された人間。

それがリップ・ヴァン・ウィンクルなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

読書記録『漱石先生ぞな、もし』

半藤一利漱石の孫娘(長女筆子の娘)と結婚しているから、

妻や義母から聞いた話を書いているのかと思って読んだ。

予想に反して、そういう肉親だけが知っている話ではなくて、

漱石や作品にまつわる事象を取り上げて考察している本。

といっても、研究書というのではなく、あくまでエッセイ。

漱石好きの人間が、思いついたことを時代背景等と絡めながら

想像を膨らませて好きに語っているという感じ。

なので、考察してみたけど思ったような結果はでてなかったりする。

例えば、『三四郎』の美禰子の身長は長身ではないかと思って

作品の記述を詳しく見ていくが、結果はそうでもなかったり。

まあ、そういう当てが外れるのも楽しみながら書いているのだろう。

漱石作品の女性がよく「銀杏返し」という髪形をしていることの考察とか、

教師としての漱石の話とかは面白い。

詳しい伝記とかを読んだことがある人には物足りないけれど、

そうでない人には導入として良いと思う。

漱石作品(特に初期作品)を読み返したくなる一冊。

漱石先生ぞな、もし (文春文庫)

漱石先生ぞな、もし (文春文庫)

 

 

 

読書記録『夏への扉』

ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』薦められたので読んでみた。

自分はSFを読んだことがないのけれど、それなりに面白く読めた。

(若干、特に後半は都合がよすぎる気がしたが)

1957年の作品だけど、作中の現在として設定されているのは1970年。

その12月3日からスタートし、2000年12月13日へと物語は展開していく。

共同経営者である友人と婚約者に裏切られた主人公は半ば自棄に

保険会社が提供する冷凍睡眠(コールド・スリープ)を申し込む。

愛する相棒、猫のピートとともに眠りにつくはずが、

翻意して二人に復讐することを思い立つも、

思いかなわず二人によって無理やり冷凍睡眠させられる羽目になる。

そして目覚めるとそこは2000年のロサンゼルス。そこで彼がどういう行動に出るかは

本を読んでもらうとして、全てを失った男が失ったものを取り戻そうとする物語。

そういうのが好きな人には面白いのではないかと思う。

最初の方に書いたけれど、自分には都合がよすぎるように思えて「名作」とまでは言えない。

ちなみに、タイトルは『夏への扉』だけれど、「夏」が何を意味するのかを読み取ることができなかった。

(舞台は冬のロサンゼルス)

主人公がかつて住んでいたコネチカットの冬を知っていたら、なぜ「夏への扉」を希求するのか、わかるのだろうか。

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

よのともわれらをすてさるときも

クリスチャンでもない自分が讃美歌なんておかしな話だが、

『いつくしみふかき』という讃美歌を思い出すことがある。

チャペルでの結婚式に参列した時に初めて歌ったこの歌、

音楽の時間に習った『星の世界』という曲とメロディーが同じだから、

歌いやすかったのもあって、歌詞がすんなり頭に入ってきたのだ。

歌いながら衝撃を受けたのが、タイトルに記した

「世の友我らを棄て去る時も」

(本当はクリスチャンではないけど)神の前で愛を誓う二人。

その二人を友達が棄て去る時とはどんな時だろうと、

そのことばかりが気になって、だんだん深刻になってきた。

歌の意味としては、

「慈しみ深い友なるイエスは 変わらない愛で導いて下さる

 世の友が我々を棄て去る時も 祈りに応えて労わって下さる」

ということで、二人にとっては(神を信じていれば)心強い歌。

まことに結婚式に相応しい。

ただ、自分の中で「よのともわれらをすてさるとき」が恐ろしく思えて仕方なかった。

 

ふと、この歌を思い出すたびに、神を信じることのできる者は幸いだと思う。

神を信じることもできず、自殺をすることもできない人間は

発狂するしかないと誰かが言っていたのだけれど、

神を信じることもできず、発狂することもできない人間は

自殺してしまうのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

鑑賞記録『男はつらいよ ぼくの伯父さん』

www.tora-san.jp

今回の主役は寅さんというより満男。

寅さん好きとしては少々物足りなく寂しく感じる。

この頃、既に渥美清の体調は思わしくなかったとのことで、

全体として寅さんに元気がないようで、

映画外の事情を考え切なくなってしまうのだ。

とはいえ、青春映画然とした今作は今作で面白い。

満男にはもっとしっかりしろよと言いたくなるし、

泉の養父の嫌味にも、もっともだと頷く一方で、

頑張れよ青年と声をかけたくもなる。

満男役の吉岡秀隆は良い役者だなとか考えたり。

でも、やっぱり主役は寅さんだなと最後の最後で引き込まれる。

 

家出旅行を終えて満男が帰ってくるのを皆で迎えているところに、

寅さんから電話がかかってくる。

次々に電話を渡して皆が寅さんと話そうとする。

長引く電話に公衆電話からかけている寅さんは慌ただしく十円を入れる。

家族やタコ社長に加え、近所の人達まで集まってにぎやかな中、

さくらは、みんなここにいるのに「どうしてお兄ちゃんだけいないの」と言う。

そう、皆が揃って幸せそうにしているのに、寅さんだけそこにいない。

満男も旅をしたけれど、それは一時的なもので

旅から旅に生きる寅さんとは本質的に違う。

帰る場所も、待つ人たちもいるのに、旅に生きざるを得ない寅さん。

不幸というわけではないのだけれど、切ない生き様なのだ。

 

読書記録『渡辺のわたし 新装版』

もともと2004年(もう10年以上経つということに愕然とするが)にオンデマンド出版されていたが、

その出版元のbooknestが今年3月でサービスを終了した。

これで、『渡辺のわたし』が手に入らなくなる・・・と落胆していたら、

ご本人のtwitterで別の出版社から新装版が出ることが知らされたので安心した。

それが港の人から出版された『渡辺のわたし 新装版』である。

同じ9月に別の出版社から第二歌集『人の道、死ぬと街』が出ているが、

まずは第一歌集から入っていくことをおすすめする。

こんな読む人のいないブログでも「おすすめする」とか偉そうに言ってしまうくらいには斉藤斎藤の短歌が好きです。

渡辺のわたし 新装版

渡辺のわたし 新装版

 

   雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

本書P27掲載のこの歌を初めて目にしたときの衝撃は今でも覚えている。

何この見たまま過ぎる歌はと思ったけれど、ひらがなで「あるいてゆけばなんでしょう」と興味をそそられ、

それがぶちまけられたのり弁だったという落胆のような衝撃のような感覚。

この歌に始まって、あれよあれよという間に斉藤斎藤の世界に魅了されてしまった。

好きな短歌について語りたいところだけれど、好きすぎて引用の範囲を超えてしまう恐れがあるので割愛する。

是非一読してほしい。

定価1500円です。